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その6 褒めない男 [ぼくたちのおっぱい 2]

 この世には決して人のことを褒めないタチの人間がいる。今回はそんな生前の親父について書く。
 親父は一般的な会社員とは異なり、休みの曜日が固定されておらず、また勤務時間も普通のサラリーマンとは明らかに違うシフト制のもとで働いていた。
 出勤日程はこんな感じだ。出勤して夜まで勤務し、そのまま宿泊、翌朝帰宅(朝帰り)して、その日は終日自宅にいる。これを2回繰り返し、5日目は丸々一日休む。つまり、出勤=夜勤、午前様、出勤=夜勤、午前様、終日休み。これが1サイクルだった。
 だから平日のまっ昼間に夜勤明けであったり休みであったりすることが多く、しょっちゅう父兄参観日に来ていたのを思い出す。子供の教育に目を光らせている「教育パパ」だったのだ。ちなみに、母親は昼のパート仕事をしていたし、たとえそれが小学校の授業であっても勉強のことはさっぱりわからない、という人であった。親父は常々
「子供の教育のために敢えて俺は転勤をしない」
とほざいていた。
 さて、そんなわけで朝帰りした平日の昼間に目覚め、暇な時間を持て余していた親父は、地方公務員なのにアルバイトをしていた。今からでも訴えてやろうか?(と思っていたら数年前に死んだ) 実はその頃、母のパート仲間の子供たちを集めて算数の補習塾のようなことをやっていた。一度に数人ずつ、ひとり当たり数百円の料金なので、ほとんど稼ぎにはならないがタバコ銭のためにやっていたようだ。僕は年上の生徒達に混じって、一時期教えてもらっていたことがある。他の教科を教えることはできない親父だった。
 ある時、親父の教え方(説明の手順というか、言葉の使い方というか)が学校の先生と違っていて理解できない、と文句を言うと
「もう、お前には教えないから」
と言い出しやがった。僕はせいせいしたのを覚えている。よその子に教えるのがメインなので、自分の子供がどうなろうと関係ない。いやなら聞くな、というわけだ。
 そもそも僕は、家で親父に教わらなくても、学校の授業で十分に良い成績を取れていた、小学校まではね。だからそれなりのテスト結果を持ち帰ったはずなのに一度も褒められた記憶がない。親父は決して僕を褒めなかった。というか他人のことを良くいう姿を見たことがない。親父の言い方はこうだ。
「習ってない問題で100点を取ったならすごいだろうが、一度授業で習っていることなんだから100点を取るのが当たり前だ!」
はあ? いい点を取ったからと天狗になるなよ、と言うのなら、そう言えばいいじゃないか。いくら頑張って勉強しても、毎回こんなことを言われていたのでは子供はやる気をなくす。悪いことをして怒られるなら納得もできるが、あの成績で詰られたんじゃあ、たまったものではない。よくもグレなかったと自分を褒めてやりたい。
 学校の授業を土台に教えるでもなく、人の努力を評価するでもなく、だから人にやる気を起こさせるハズもなく、嫌みばかり言って不快な思いをさせる親父、教師気取りもいい加減にしろ、と思った。人をまともに評価できないような人間が、人にモノを教えるなよ。と、生きている間に言ってやりたかったなあ。。。

(続く...)


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その5 祈りの場 [ぼくたちのおっぱい 2]

IMG_1668.jpg
 
 高校はミッションスクールだった。学内に聖堂があることは知っていたが、在校時、一度もそこで時間を過ごすなんてことはなかった。当然ながらカリキュラムには宗教の時間があり、人並み以上にキリスト教には馴染んでいても、そういう関係のものを極力避けるように過ごしてきた。というのは、キリスト教信者の生徒をなんとなくバカにするような雰囲気があり、さらに宗教の授業のテキストである新約聖書を
「こんなもの、真剣に読んではダメですよ」
なんていう教師がいる高校だったから。そんなことを言う教師がミッションスクールにいて良かったのだろうか? M先生、ご存命かな?(MはMathematicsのMではなく宮崎駿のMね。。)
 進学先のカトリック系大学の隣にはがっつりと教会が建っていた(初代教会は1930年代の建立)。授業の合い間に何度かそこに入ったことがある。
 初めて訪ねた日の感想。。。平日の昼間、授業を終え学内にある学生寮自室に戻らず訪ねた教会内は静謐に満ちていて、会衆席で祈る人の姿はごくわずかだった。僕は聖堂内に入り、まずは四方の窓に嵌められたステンドグラスに見入った。真昼の陽光がひとつひとつの窓に描かれた厳かな絵を透かし、美しく輝かせていた。これを見るだけでも訪ねた甲斐があったというものだ。
 ミサにはひっかからない時間だったので、誰に邪魔されることもなく、堂内を眺め回した。祈りながら大きくうなだれて泣いている男の人がいたのを覚えている。うれし涙か、悲しくて泣いているのか。そんな場面に出くわすのは初めてだったので、とても新鮮な驚きを感じた。
 建物の外観だが。。1999年、この教会の聖堂は敷地を目一杯使って大きく改築され、全体が円筒型になり、古くさい白塗りの壁から現代風の「白茶」っぽい色に様変わりした。趣のあった内部はモダンではあるがすっかり素っ気ない感じになってしまった。(教会の改築を知っているだけでトシがばれちゃうな。。。ま、いいけどさ(*^_^*))
 それにも増して、この教会の平日ミサは典礼聖歌を歌わないので素っ気なさを通り越して寒々しく、天井だけが妙に立派であまり好きにはなれない建物になってしまった。教会の建物なんて「ただの容れ物」だから、「教会」の本質的な部分ではないと思うのだが、それにしてもね。
 ちなみに、日曜日になるとここでは外国人信者を対象にしたミサが数回行なわれているようで、特にヒスパニック系の信者が多いようだ。興味のある方は一度訪ねてみてください。可能ならばクリスマスイブ、あるいは復活前夜祭(復活祭の前夜)に行くとより感動的かも。
 ところで、大学を卒業した時、他のゼミ生と指導助教授(なんとカトリック司祭であった!)とともにこの教会前で撮った写真はどこにいってしまったかって? そんな物、とっくに破り捨てましたよ。

(続くんだな、これが...)


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その4 『男子寮滝滴』(おのこのやど シャワーのしたたり) [ぼくたちのおっぱい 2]

 学生時代、こう見えて男子寮にいたので、寮生達はみんな男子だった、当然だね。先輩も後輩も同学年も皆「おちんちん」がついていた、そんな男子ばかりの寮内での、別になんということもない話。まあ、全部そうなんだけどさ。。。今では「おちんちん」がついてない人もいるかもしれない。それぞれの人生があるよね。
 さて、学生寮の地下にはお風呂場と洗濯室があった。洗濯室に設置された3台しかない洗濯機を、僕たち新入生は先輩たちに気兼ねしながら使っていた。お風呂場は脱衣場から見ると逆L字型、というか閉じ括弧(」)の形になっていた。横線の方には5台ずつ向き合って設置されたシャワーがあり、縦線の方にはと大きな浴槽、そして洗い場があった。お風呂場全体に学内メインストリートからの木漏れ日が差し込むという、なかなか素敵な構造だった。
 僕は入寮して数日して、湯船に入ることを止めた、というか諦めた。授業を終えて、週に数度の男声合唱団(聖歌隊ではなく、グリークラブの方ね)での部活を終え、夕食を済ませ、さて入浴しようと風呂場に行くと、浴槽のお湯はすでに緑色がかっていた。部活を終えた寮生(主に先輩達)が午後から代わる代わる入浴していて、夕方にはすっかり青汁ならぬ「緑汁」になっていたのだ。
 しかも、たまにお湯に浸かろうと浴室の方へ行くと、明らかに肌の色が違う留学生たちが「見事な股間」を何本もさらして湯船のフチに寝そべっていたりして、思わず興奮してしまいそうな風景が拝めた、いや見えたから。あれだけ立派なモノを目にしていながら、学生時代には一本も咥えなかったことを後悔したものだ。人生には何事も経験が大事だ。
 ある夜、以上のような理由で入浴せずにシャワーを浴びていたときの話。片側に5台あるシャワーのうち、一番お湯の出がいい真ん中で浴びることにした。僕以外、誰もいないシャワー室。しばらくすると、反対側にある5台のうちの真ん中に誰かがやってきた。流れ落ちるお湯の間からいつもお世話になっているY先輩の姿が見えた。(Yは卑猥の「猥」ではなく、戦艦大和のYね。。)
 シャワーはそれぞれ左右の板で仕切られているが、ブースのように完全に覆われてはいない。身体を洗っていると真正面からは丸見えだ。5台もあるのだから、何も真向かいで浴びなくてもいいのにと思いつつシャワーを浴びていると、Y先輩が話しかけてきた。
「生田くん!」
呼びかけられ、「はい?」と答えると、
「生田くんの唇って、真っ赤だね」
え? 真向かいでY先輩がちょっと受け口の口元をニタ〜っとさせて、こちらを見ていた。僕はちょっと怖くなった。「真っ赤な唇」って、それ、今言うことですか? 先輩、そういうあんたも唇が真っ赤だよ、と思いつつ、軽く頭を下げて、そそくさと浴室を出た「18の夜」でした。

 余談ですが。大学2年の夏休み、日光にある大学の保養施設に住み込んでアルバイトをしていたある日、男体山に登った。
 賄いの夕食を終え、ひと眠りしてからバイト仲間(全員が普段一緒に暮らしている寮生たち)と深夜に旅館を出て神社へ向かうと、大勢の登山客が集まっていた。翌朝のご来光を目指して出発!
 登山コース途中で、宿泊客のひとりとして一緒にスタートした大学の先輩がフラフラと前を登っていて、思わずそのケツを後ろから押し上げた記憶がある。なんでそんなことを覚えているかというと、その先輩、女子だったから。よくもまあ、蹴落とされなかったものだ。真夜中に女性のケツを、しかも先輩のお尻を触ったらアカンわなぁ。
 目の前にいる先輩が異性であるという認識が僕にはなかったんだね。そういうことに疎いのか、あるいはそういう性質(たち)なのか。だから、シャワー室での先輩の一言が怖かったのかもしれない。。。

(というわけで、続く...)



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その3 『耶蘇夜危操』(やそのよる あやぶむ みさを)  [ぼくたちのおっぱい 2]

 学生寮内でたまたま見かけた、ある不思議な光景。普通、会話というものは会話者間に共通したひとつの言語でなされると思っていた。寮内で外国人と英語やフランス語で会話している日本人を日常的に見ていたし、時々自分でも拙い英語で会話することがあった。たまに回ってくる寮の電話当番に入ると、イヤでも英語で応対せざるを得ない時が。当時のやり取りを今思い出すと、ただただ冷や汗が出る。
 しかしその日、寮内の廊下では日本人の先輩が日本語を話し、相手の外国人寮生が英語を話していた。つまり「それぞれが自分の国の言葉で話し、それぞれが相手国の言葉を理解する」という「対話」が成立しているのを見て、これが一番面白かった。しかも結構なスピードでややこしそうな話をしていた。しかもこの留学生、英語を母国とする人ではなかったような。。。一体、横着なのか?有能なのか? 相手の国の言葉が理解できるのならば、これがお互いにとって一番楽な会話方法なのだろう。
 留学生と話し終えた後で、外国語学部英語学科のその先輩は、キョトンと横で聞いていた新入生の僕達に向かって、
「寮内で毛唐(けとう)の言葉を使うんじゃねえ!」
と言っていた。え?耳を疑った。「毛唐の言葉」を勉強しているのはあんただろ!
 留学生だけではなく寮内には何人かの外国人の先生方が舎監として起居を共にしていた。舎監にはアメリカ人、フランス人、ほかに日本人の先生もいらっしゃった。実は神父様や修道士、という方も多かったと思うが、詳細はわからない。
 ある日、寮内でコンパがあり、さんざん酒を飲んで自室に戻ったときのこと。しばらくするとアメリカ人の舎監が僕の部屋に入ってきた。
 すっかり酔っぱらいベッドに寝そべっている僕の下半身(むき出しではないが、ズボンの上から明らかに「あそこ」)を、ヤツは何気にサワサワと撫で回してきた。何なの、これ? なぜヤツがそんな行動に出たのか、不思議でならない。かなり酔った寮生を介抱しようという「舎監としての親心」なのだろうが、僕には「スケベ外人の下心」としか思えなかった。放っておいても近寄ってくる男の子はいたので、日頃から「こういう状況」を恐れていた(前話『男娘(さぎむすめ)』を参照されたし)。
 今でもそうだが、僕は毛深い男の体がとても嫌いだった(自分も毛深い方だけどさ)。しかも、大概の外国人男性がそうであるように、体臭を消すためなのか、某か「匂うもの」をつけていて、それもイヤだった。近寄るんじゃね〜よ全く! オトコの匂い、男臭さが大嫌い、という感覚はこの時にしっかりと植え付けられたのかもしれない。基本的に男に限らずヒトの体臭が嫌い。自分の体臭も嫌い。これも自分を好きになれない一因だ。
 僕は自分が「男」であること、さらにどんどん「オッサンになっていく」ことが嫌で、そうかと言って女として生まれていたら恋愛対象は男になっちゃうわけで(でもないか。。)、だからそれも嫌。要するにわがままなのかな。性自認と性的指向を切り離して独立事象として考えないと、自分がナニモノなのかもわからない。まあ、とにかくその夜、「僕の操」は保たれたのでした。めでたし!

(すみません、続きます...)


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その2 『男娘』(さぎむすめ) [ぼくたちのおっぱい 2]

 学生時代のお話を紹介します。男子寮にいたのだからこんな話の一つや二つ、皆さん持ってないですか? 今回はちょっと正直に(tbh)告白します。
 都内の、とある駅弁大学に入学し、入寮オリエンテーションも済んで間もない頃の話。履修登録前、授業が始まるまであと数日。初めての都会暮らし、初めての寮生活、毎日が修学旅行。。。
 ある夜。同じ学年、同じ学部の仲間がひとつ部屋に集まって「ナポレオン」に興じ、さらにしばらく話し込んだ後のこと。ひとりの寮生(仮に大島くんとしておこうか)がなかなか僕達の部屋(二人一部屋であった)から帰ろうとしない。かなり遅くなり、そろそろ眠くなってきて僕がベッドに横たわると、大島くんはその隣に寝転がる始末。なんとなく僕の体に「くっ付いていたかった」のだろうなあ。横になっているときに背後からピタっと身体を寄せられる感じは兄を思い出し、懐かしく感じた。別にイヤではなかったけれど、どうも僕のタイプではないのか、大島くんに対して性的な興奮を覚えることはなかった。なぜ彼がそんな行動に出たのか、不思議でならない。
 別の日、またまた大島くんがうちの部屋で話し混んでいたときに、僕のことを「女みたいな性格だなあ」と言った。自分の中のどの部分がそう見られているのか全然理解できなかった。どこが女々しいの? しつこい性格ってのはわかっているけれど。熱しやすく冷めやすいというところ? 機械が苦手で、かわいいモノが好き、とか。何を指しているのかわからなかった。これが自分としては当たり前だから、あの頃も今も、「?」だ。女「みたい」なんじゃなくて、メンタルが女子なのかもしれない。いいじゃん、別に!
 さて、僕は大島くんには興味はなく、他の男子学生にも関心はなかった。と書きたいのだが、実を言うと同学年の法学部の男の子、「学くん」にはすごく興味があった。同じ学科の、僕のクラスにいた3人の女子学生達には関心がなかったけれど、「学くん」にはすごく興味があった。
 今ならば間違いなく「男の娘(おとこのこ)」と呼ばれたであろう。彼は性格的には「男そのもの」だったが、全くスッピンなのに女性としてパスできる容貌であった。年は同じ18歳、色白のポッチャリした可愛い子で、とにかく「押し倒して、どうにかしたくなっちゃうような」子であった。あんな気分は、後に十代の尾上松也(女役:笹原たき)を見た時ぐらいしか感じなかったなあ。「学くん」、元気でいるかなあ、今でも素敵な「男の娘」だろうか? そんなわけないか。

(まあ、続くだろうね...)


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その1  Fade Away And … [ぼくたちのおっぱい 2]

 第Ⅰ章は「ぼくたちのおっぱい」として、「家族にとってのおっぱい」であった母の思い出を中心に書いた。
 この第Ⅱ章では、母の生前や没後の時間に拘らずに、その後ぼくの周囲に居た女性達との関係を書いた。だから正しくは「ぼくのおっぱいたち」と言うべきか。なお、途中で乳牛が出てくるのはご愛嬌。それも一応「ぼくのおっぱい」。

第Ⅱ章 序

 中学生のとき、同じクラスにちょっと変わった女子生徒がいた(ぼくの記憶が正しければ、◎崎裕子さんだったと思う)。メチャクチャ頭が良くてもの静かで、大人びた雰囲気に包まれていて、決して「べっぴんさん」ではないのだが実に素敵なお嬢さんだった。素敵というよりも、尊敬すべき中学生だった。だが、僕にとっては素敵な子だったけれども、もしも周囲が彼女のことを知ったならば、間違いなくドン引きしたであろう。なにせ彼女は『リストカッター』だったから。
 小学校時代からの女友達の家(第1章 第11話「幼馴染」◎野みゆきさん宅ではない)に、数人の仲間と集まって話していたときのこと。その頃すでに中学生になっていたが、男の子の家に遊びに行った記憶はない。
 裕子さんは自分の『やり方』を教えてくれた。カッターを右手に持ち、
「チョン、チョンって、こうやるのよ」
と、鋭利な刃先で左手首に傷を『刻んでいく』のを実演して見せてくれた。一体何が彼女にそうさせたのだろう。どんな苦しみがあって彼女はそうしたのだろう。天才の考えることなんて僕には理解できなかった。いまだに何もわかってあげられない。今も生きているのかさえわからない。
 その後、彼女は札幌の某有名道立高校へ進学すべく、学区外受験を避けるためなのか函館を離れた。僕はと言えば、受験する気のなかった私立高校、実家に一番近い冴えない男子高に進んだ。
 僕は毎日、ふてくされて親父と顔をつき合わせていた。程なく、僕も彼女の『真似』をするようになった。


Ⅱ  第1話  Fade Away And ….
 
 14歳、中学2年のとき、家族間にトラブルがあったことは既に書いた。トラブルというか、僕が自分の家族と近所の友人宅に迷惑をかけた、ということになっている。そのことがきっかけで、当時好きだった女の子との付き合いを止めるように親父に言われた。受験高校を変更させられたことも一因だった。
 その後数年間、僕は親父と口を利かなくなった。仕方がないので、母が間をとりもってくれた。加えて、ズルいことに高校受験が終わるまでは「素直ないい子でいよう」と、僕も親父に逆らえずに行動してしまった。親に金を出してもらっている以上、従わざるを得ないと考えたからだ。とりあえず今では父子間の軋轢は解消した、と思わせている。母もそう信じて逝ったことだろう。(注:その後、親父も死んだのだが。。。)
 本意ではない高校に通うことになった僕の気持ちもわからず、親父は僕の進学先に満足していたようだった。そのため尚さら僕は不愉快になった。表面上は普通に接していても、僕の中で親父の評価はずっと地に落ちたままである。僕の心は中2の時の「病」(いわゆる中二病、ではない)に犯されたままなのだ。
 この一件は、その後自分が生きていくうえで、非常に悪い影響を残してしまった。
 自分が望んでいること、欲しいもの、やりたいことがあるとする。それを得るために、成就させるために努力、邁進するというのが普通だろう。ところが、いくら望んでいることがあったとしても、いつか何かに、どうせ誰かに邪魔をされて破綻してしまうのではないかという「不安」、「恐怖」が常につきまとい、終いにはその「不安」をむしろ心待ちにしてしまうこと、さらにそんな「期待」が「快感」に変わることを知ってしまった。これを『破滅願望』とでも呼ぶのだろうか、これは悪い病気だ。非常に悪い癖を身につけてしまったと思う。全く同じ傾向を実は親父も持っていることを僕は疑っている。
 中学生だったあのとき、僕にあと少しの勇気と知恵があったならば、親父を殴り倒してでも自分の思いを貫けたのだろうと大いに後悔している。
 ぼくはとってもわがままで子供じみた性格なので、自分の思い通りにならないと自暴自棄になってしまうところがある。どーでもよくなって、いっそのこと自分をこの世から消し去ってしまいたい、という願望を強く抱くようになってから長い。年がバレるので、どれだけ長いかは書かないけれど。
 心と身体のバランスを欠いていた最悪の時期もあったけれども、このごろは色んなことがホントに「どーでもよくなって」もうしばらく生きていける気がしている。
 いいのか、これで?

(当然のように続く...かもしれない)



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第39話  母、ブチ切れる [ぼくたちのおっぱい]

 母はブチ切れた。冗談ではなく、本当にアタマがブチ切れたことがあった。
 うちの母は以前脳梗塞で倒れていたので、人一倍その健康管理をきちんとしてあげなければならなかった筈だ。可能ならば、人間ドックで徹底的に検査も受けさせたかった。
 僕は常々そんな母の健康状態を気にかけていたのだが、これに対して兄夫婦は、特に兄嫁は母のことを猛烈に嫌っていたので、そんなことを考えるわけもなかった。危篤の報せを受けた翌朝早く家を出た兄に対し、兄嫁は一緒に家を出ずに「母死す」の連絡が入ったのちに悠々と家を出た、というのが真相。息子は子供ではないので、放っておいても大丈夫な年齢だったはず。。。あの女は危篤の報せを受けて夫が帰省の支度をしているのを横目で見ながら、ただ母が死ぬの今や遅しと待っていたのだ。
 ちなみに、母の葬儀が済んで実家の整理作業を続けたほんの数日の間に、途中二度もふけやがった。友人との食事会があるから、テニスがあるからといって二度も石狩に帰った女だ。お姑さんが死んでその遺品の整理をする合間に、いくら以前から約束していたことだからとはいえ、自分の旦那やお舅さんを残して遊びのために帰るか、普通?
 さて、この哀れな母のそばにいて忙しく立ち働く姿を毎日見ていた父はといえば、母の健康を気遣うわけもなく、ひたすら惚けの道を突き進んできた。
 親父はただ惚けているだけならいいのだが、とにかく介護に手間がかかる。手足が動かないわけでもない、寝起きも普通にできるのに、目薬ひとつ自分でさすことができないのだ(白内障だから目ん玉の前にある目薬が見えないって、そんなの言い訳になるか?)。数時間おきに点眼してあげなければならないらしい。風呂掃除をしていようが食事を作っていようが、洗濯をしていようが買い出しから帰ったばかりだろうが、何をしていてもその手を止めて、親父の目薬をささなければならない。母の最後の人生はクソ親父の目薬をさすためにだけあった。
 母の生前、僕が帰省していたときのこと。
 僕は目薬をさしてやりながら親父に聞いてみた。
「自分でさせないの?」
「目の病気なんてしたことがないから、目薬をさしたことがないんだ」
「目薬ぐらいさせるだろ? 小学生だってできるよ」
「これが、どこにさしているのか、わからないんだよなあ」
とっとと死ね!と思った。わがままな御坊ちゃま育ちの親父は、自分では目薬もさせない。なんでもオバアちゃんにやってもらっていたのだろう。親父はさんざん手間をかけさせておいて、おまけに母にあれやこれやと文句を言う。目薬をさし終えて、親父が台所へ立ち冷蔵庫の中に点眼薬を戻しているとき、母は
「死んでしまいたくなるね」
と僕に漏らした。
 別の日、母は忙しい家事の合い間に父の点眼をしながら、
「やることはいっぱいあるんだから!」
と、父に向かって怒気を込めて言った。母がブチ切れているのを初めて見た。
 しかし何だかんだ言っても、母は最後まで親父のことが大好きだったのだろう。だから、命の限り親父の面倒を見ることができたし、一所懸命に世話をしているその好きな人から文句を言われた日には、生きている甲斐がない、死んでしまいたくなる、のもわかる。母が哀れで、心底親父を憎らしく思った。
 最後まで好きな人の世話をできたことに母が満足して逝ったとすれば、せめてもの慰めだと思う。そう思いたい。

 第Ⅰ章 ぼくたちのおっぱい 完  

(第Ⅱ章に続く、かもしれない...)


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第38話  素敵な人 [ぼくたちのおっぱい]

 郷里の函館市内に18歳まで、高校を卒業するまで住んでいた。函館山の麓に「道南 青年の家」があった(1996年7月に閉館)。旧ロシア領事館である。
 中学2年の夏、町内の子供会を指導するおじさんに「あそこへ行って研修を受けて来い」と言われ、「青年の家」での宿泊研修会に参加した。そこで知り合った女の子、石山◉弥子さんに『生まれて初めての感情』を抱き、お付き合いを始め、その後しばらく続いた。女の子に対してあんなにドキドキする感情を抱いたことは後にも先にもない。そういう感情は抱くけれども、だから何かしたいというわけではなかった。そこが今もって自分自身がよくわからない点である。
 函館市内ではなく隣の市町村に住む彼女とはそう簡単には会うことができず(なにせ広い北海道、しかも電車もバスも直接つながっていない時代だから)、デートは難航した(気分は「プロジェクトX」)。携帯電話どころかポケベルすらない頃だもの、連絡手段は黒電話と手紙しかなかった。
 ある日、我が家で、両親がいない日にあったときのこと(そのころすでに兄は札幌の大学に進学し、僕は「一人っ子」になっていた)。季節は新しい年を迎え、春も間近く徐々に根雪が消え始めていた。彼女と会うのは何度目だったろうか? 
 戸外はまだヒンヤリとした時期、しばらく一緒に歩いてきて、少し暖まりたいな、と思った。ここが僕の家なんだよ、と玄関に招き入れた。コートを着たままの僕達は、寒さのためばかりではなく頬を赤くして、立ち話を少しし、別れ間際にキスをした。
 口から心臓が飛び出る、という感覚はこのとき初めて知った。腰の辺りにズキズキとはち切れそうな痛みを感じた。一応のキスを終えて唇を離したそのとき、
「そんなキスじゃいや!」
と彼女は言った。え? どんなキスならいいのさ。これ以外のキスって、ディープキスってこと? 無垢な田舎の中学生に無茶を言わないでくれよ。言われた方はたまったものじゃない。
 後日、僕は彼女とつき合うことについて家族と色々ともめて、その挙げ句に彼女とは別れた。僕とわが家族との間には長くしこりが残った。もちろんキス以上のことはお預けだった。
 ちなみに、受験校を選ぶ段になって彼女が通う私立女子校に近い公立高校に通いたかったのだが、結果として実家に一番近い私立の男子校に通うことになった。お前は勉強だけしてろ、という感じの、まるで隔離されたような毎日が始まった。あの時、我を通して何がなんでも公立高校(ギリヤーク尼ヶ崎さんの母校で、凧揚げで有名な高校。いまは統合されてしまった)に進み、さらに彼女と一緒になっていれば、もっと素敵な人生であったろうと大いに後悔している。いや、一緒になれた保証はないかな? その後の人生で「女性と一緒にいると感じる自分自身への違和感」を早く知るだけだったかもしれない。
 最近思ったのだけれど、◉弥子さんは映画『Melody』の主役に良く似た女の子であった。その後も男の子たちを困らせたのかなあ、「そんなキス」とか言って。きっと今でも(どんなにお婆さんになっても)、間違いなく僕よりひとつ年上の「素敵な人」でいることだろう。

(続く...かもしれない)


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第37話  変な子 [ぼくたちのおっぱい]

 帰省の折、特に実家に帰った二日目の午前中などにゆっくり家族と話すことがあった。実家に着いた夜の宴から冷めて、自分を取り巻く近況を話していると、母がふと気づいたように
「美喜ちゃん、あなた結婚しないの?」
と、別に責付いているのでもないけれど、ストレートに聞いてくることがあった。見た目「出来損ない」の息子でも、母はその行く末を心配してくれていたのだ。あの「ちんこ」だもの、お嫁にいけないのはしょうがないにしても、せめてお婿にいけないのかしら、と母にしてみれば、そりゃあ心配だったろうよ。
 でもさ、最近湯上がりで見た僕の「ちんこ」、お母さんも見たでしょ? 男性としてフツーの結婚生活を送るなんて無理に決まってんじゃん。 
 見た目はともかく、僕には世間一般の「男らしさ」が欠けていて、一筋縄では捕らえられないところがあるらしい。自分では思わないけれども、少なくとも家族の中ではそうらしい。呼び名が時として「お嬢さん」だったくらい。まあ、会社でも結構な変人で通っていたけれども。そんな僕から見ても、兄はなかなかの変人、父はさらに輪をかけた大変人だった。
 さて、帰省の折の土産話だが、色々と具体的な出来事を話したついでに、自分がこれから作るであろう家族や将来のことについて聞かれるままに自分なりの考えを話していて、僕の考えを理解できないときに母は決まって
「あんた、変わった子だねえ」
と言った。そぅお? 変わってる? 僕の言ったことが割と普通の考え方なのかもしれないのに、母の頭で理解しがたいことは、何でも「変わっている」で済まされてしまうのだった。母は「大変人」の父を見慣れているので、というか一緒に暮らしているので、変人の何たるかを知り尽くしているのだから、その見立てに間違いはないのだろうけれども。
 それにしても、僕まで「大変人」と同じにしないでもらいたかった。母にとって奇異なこと、奇妙なことはあくまでも「変」かもしれないけれど、せめて理解してもらいたかったなあ。
 そうはいっても母親だもの、近頃のバカな奴らのように、自分たちと異質のものや違う考えを持つものは排斥し仲間はずれにするとか、理解できないものは徹底的にいじめる、なんてことはなかったけれどね。家族じゃなかったらどんな目に合っていたのかな、僕。
 こんな調子の母だから、もしも僕が日頃考えていたようなことを真面目に説明していたならば、決して受け入れてもらえなかっただろう。例えば、学校を卒業する頃から定まった仕事に就こうなんて思っていなかったこと、自分の家族をもつ気は更々なかったということ、自分の血を継いだ子をもうけるつもりは微塵もないということ、自分の生まれついた性にとらわれる生き方はしたくない等々、固定観念はぬきに僕の考えを話してみたかった。
 一体どんな顔をされただろうか? 心の中まで「出来損ない」扱いされただろうか?
「あんた、変わった子だねえ」
と言って、ほうじ茶を啜るんだろうなあ、きっと。

(続く...かもしれない)


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第36話  目覚め [ぼくたちのおっぱい]

「お嬢さま、朝ですよ。そろそろお起きになったらいかがですか?」
という母の声に目覚める。帰省して実家で寝ていると、そう言って母は僕を起こしにくる。性格がわがままな僕は、家族の中では「お嬢さま」と呼ばれることがあった。性格のせいだけではないけれど。随分大人になっているのに、相変わらず「美喜ちゃん」とか言われて起こされた割と最近のある日、母はこう言った。
「この人、タオルを離さないんだもの」
 僕は枕元にいつもタオルを置いて眠るのだが、これを洗濯しようと思っても手離そうとしない、と文句を言われた。いや、目を覚ました後は持っていって構いませんよ、お母さん。
 ところで、数年前から抑うつ状態を呈するようになっていた僕は、朝起きると、いや朝だけではなく、夜中に目が覚めたときも、泣いていることがあった。一番ひどいときには、深夜から明け方にかけて三度目を覚まし、三度とも嫌な夢を見て泣いていた。そんな馬鹿なことがあるかい!と思う人もいるだろう。でも本当の話だ(すべてが実話・実体験だけれど)。これが抑うつの実態で、しかしこれはまだいい方だと思う。本当に死んじゃう人がいるのはご承知の通り。残された家族にはとてもつらいことかもしれないけれど、本人にとっては他に楽になれる方法がなかったのだから、死ぬことが絶対に悪だとは決して思えない。抑うつ状態の当事者たちがこのつらさを感じていることを知ってほしい。
 さて、こういう状態で朝を迎えると、非常に気分が悪いし、なんだかどっと疲れるものだ。仕事があるから眠らないわけにもいかないので本当に始末が悪い。
 清々しいはずの目覚めの朝。「お嬢さま」としては、実家に泊まったときでも家族に涙や泣き顔を見られるのが嫌だったので、すぐ拭き取れるようタオルを置くようにしていた、というわけ。今でも週に1、2回の割で泣いて目覚めるので、自宅でも必ず枕元にタオルを置くようにしている。
 泣いて目覚めたあともメソメソとひとしきり泣くことがある。
「もう夢から覚めたのだ、気持ちを切り替えて起きよう」
と思っても、それがすぐにはできない。泣きたい気分がしばらく続いてしまうのだ。自分の感情がコントロールできない、常に情緒不安定ということは怖い。実はこれは朝だけのことではないから手に負えない。人と話していて突然泣き出したら仕事にならないだろうからと、このことが真面目に退職を考えるきっかけになった。
 いい大人が常に枕元にタオルを置いているなんて恥ずかしい話だ。でも想像してくださいよ。枕元に大量のティッシュがあるよりは、風景として美しくないですか? 枕元に大量のティッシュがあったら、ものすごい確率で勘違いされるだろうね。枕元に大量のティッシュなんて、僕、そういうことは無理ですから! 僕の身体を見たらわかりそうなもんじゃない。
「まあ、美喜ちゃんたら、元気ね!」
なんて母に思われた日には死ぬ。そうやって驚いてくれる人は、もういないけれど。。。

(続く...かもしれない)


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